それにしても、幸せとはなんだろう。
佐藤愛子の時代では、花の命は短くて苦しきことのみ多かりきというのが常識だった。
人生は苦難に満ちたものだから覚悟しなければならない、という大正時代を生きてきた彼女にとって、「幸せってなに?」という質問は困惑させられるものであるらしい。
わたしには希望がある。八月から新しくはじめたブログ『明日へのまいにち』というタイトルでもわかるように、明日はヒノキになろうという希望である。ヒノキには決してなれないし、なったところで使えるシーンは限られている。しかし希望あるかぎり、人は幸せでいられる。佐藤愛子には希望があるだろうか。
目の前の現実を生きることで手一杯だったと言う佐藤氏。シチューの作り方を聞いても作る人によって味が違うように、幸福も方法論では片付かない。生きる力を手に入れなさいというのである。
おいしいシチューはだれしも作りたいし、マネしたいものである。生きる力というのはどうやって手に入れたらいいのだろう。料理にセンスが必要なように、幸福になるにもセンスが必要なのだろうか。
材料をよく吟味する必要もあるし、じっくり煮込む根気もいる。
複数で食べたいのか、あるいは独占したいのか。
ソースはブラウンかホワイトか。
具はチキンかポークかビーフか。
シチューひとつとっても、いろいろ考えがある。
幸福の形もいろいろだ。
佐藤氏の言う「苦労を恐れない力」もまた、幸福の形のひとつだろう。
とは言え苦労を恐れる人は多い。
なぜだろうか。
昭和の、特に三〇年代以降(つまり1970年代以降)は、家庭にも科学の恩恵が及んできた時代であった。冷蔵庫やテレビ、車などが飛ぶように売れた。それと同時に、科学が人をラクにして幸せにする、という考え方も浸透するようになった。
ラクなことが幸せ、というのが現代社会の一般常識になったのである。
こうして文明は爛熟し、人は変化を恐れるようになった。変化は苦労を伴うからである。就学、就職、結婚、リタイア。人にはさまざまな環境の変化があるが、それをいとわしく思う人が増えてきたのではないだろうか。
わたしだって、パソコンがなかったら字が汚くてとても読めたものではない。この投稿も、電気がなければ空中で霧散している文字の列だし、パソコンもただの箱だ。たしかなものは何もないのがバーチャルな世界。
その中で幸せとはと大上段に構えたって、平凡な主婦の出来ることは限られている。他人のためになにかアイデアを提供しても、それが人の幸せにつながるとは限らない。
『銀河鉄道の夜』では他人のために命を投げ出すのが幸せだとしながらも、それが本当の幸なのかという疑問も同時に提示されている。文章を読むのは、自分の命(時間)を奪うことである。もちろん作者の時間も費やしているが、それを「自己犠牲」とは誰も言わないだろう。
宮沢賢治は、何を考えてこの問いを発したのか。
他人のために生きること、それが幸ではないとしたら。
老人は昔、人の役に立てたからこそ尊重されたと佐藤氏は言う。しかしスマホや自動運転車など、老人にはハードルの高いものが世の中にあふれ、高齢者はいなくていい存在からお荷物になってしまった、と。
迷惑をかけたくないのに、世話になってしまう。
世話をしたいのに、うるさがられる。
あの頃は良かったと回顧にひたっていると、じゃけんに扱われたりもする。
佐藤氏は嘆き続けている。
わたしは思う。
環境破壊、自然災害、人口減少、戦争……。現代文明にはツケが回ってきた。
進化だけでなく片付けるのもまた科学の出番ではないだろうか。未来を分かち合おうとする人は世の中にはたくさんいる。
トルストイは言う。
「たとえ世界が明日ほろびるとしても
わたしはリンゴの樹を植える」
明日へのまいにちは、いま、始まっている。