広島のあすにゃん

広島のアスリアが、日々の備忘録を書きます。

年を取るのはめでたいか

 ことしの9月18日は敬老の日。町内会の副リーダーが高齢者の会員に言いました。
敬老の日おめでとうございます!」


 年を取るのはめでたいことなのでしょうか?


 生きていること、生き延びていること。
 それだけでなく、心おだやかに死を迎える達観した境地になることが出来るからでしょうか。


 わたしの知っている年寄りは元気いっぱい。目も心もギラギラしており、とても「心おだやかに死を迎える境地」にはなっていません。若いものには負けないと、グラウンドゴルフやトレッキングにいそしんだり、毎週月曜日には集まって、百歳体操という健康筋力トレーニングをしています。

 

 欲望がなくなっていく年寄りは幸せになると佐藤愛子氏は『幸福とはなんぞや』に書いていますが、その説に従うとここの年寄りは不幸そのものだということになります。


 賢く老いていくには、欲望をおさえて枯れていくという生き方もありだという佐藤氏。


 欲や情念が消えていくから長生きはめでたいそうです。では逆に、欲や情念を持った長生きの人はめでたくないのでしょうか。副リーダーの敬老の日おめでとうございますという言葉は、とんだ偽善なのでしょうか。


 若者が欲望でギラギラしていると、めでたくないのでしょうか。


 欲や情念が消えたひとというのは、いわゆる「悟りをひらいたひと」なのだと思います。悟りをひらけば苦はなくなり、幸せすら超越してしまう。上座仏教に帰依したひとならともかく、普通の人には欲や情念はあるのが当然。なぜならそれが人間の本能だからです。人間らしさは、欲や情念から来るのではないでしょうか。


 佐藤愛子氏は、老人に生き仏になることを提案しています。
 もしそれが実現したなら、老人という種はなくなってしまうかもしれないと思うのです。


 幸せと人間らしさは両立するのでしょうか。
 みなさんは、どう思われますか。