広島のあすにゃん

広島のアスリアが、日々の備忘録を書きます。

死にかけた女の子と桃

天風録アラスジ

原爆の記憶を詠んだ句集や歌集が紹介されている。夫と4児を失った行徳すみ子さんの句集「広島」や、被爆者切明千枝子さんの初の歌集が取り上げられ、彼らの痛みと悔恨が17文字や31文字に刻まれている。これらの作品は、記憶を後世に伝える重要な役割を果たしている。

行徳すみ子さんの10歳だった娘は、犠牲となった弟をしのぶ句を残し、すぐに亡くなった。切明千枝子さんは94歳にして初めて歌集を発表し、原爆の日の記憶を歌に刻んでいる。証言活動を通じて交流する大学院生の佐藤優さんがこの歌集の編者として刊行を担い、記憶の継承に貢献している。時代が変わっても、これらの作品は「あの日」を永遠にとどめようとしている。

 

コメント

広島の現平和資料館館長、原田浩さんのお話を、中国新聞から要約してお話しします。

六歳だった浩さんは、父から桃をもらいました(どうやって手に入れたのかは不明だそうです)。その桃は、とても大きくて甘い汁がたっぷり詰まっており、めったに食べられない贅沢品でした。浩さんは、とても嬉しくてたまらなかったのです。

しかし、喜びも長くは続きませんでした。原爆投下で広島は一瞬にして惨状に変わりました。建物は崩れ、人々は悲鳴を上げ、街全体が地獄絵図のようでした。浩さんは瓦礫の中を歩き、無数の屍体を踏みつけて進みました。

突然声が掛かりました。

「その桃を、子どもに譲ってくれませんか」 地面で苦しむ母親が、3歳ぐらいの女の子を抱えていました。女の子はほとんど死にかけており、母親の目には絶望と哀願の色が浮かんでいました。

浩さんは桃を抱きしめました。彼にとって唯一の希望の桃。母親の目に耐えきれず、浩さんは逃げるように駆け去りました。

その後、浩さんは桃をどうしたのか思い出せません。ただ、あの母親と女の子の哀しそうな顔だけが、今でも彼の心に刻まれています。