どちらかというとハヤシライスは嫌いだった。ハヤシライスを食べるぐらいなら、カレーライスを食べたい派なのである。人名のついたハヤシライスは罰ゲーム。エゴの塊、夜の女のように甘ったるい。こんなの食べる人の気が知れない。
二〇年前、わたしたちは繁華街にある飲食店に入っていた。義母が知りあいから、その店のハヤシライスがめっぽう美味いという評判を聞いてみんなでやってきたのである。
ビーフシチューのご飯添えというゲテモノのくせに。美味しいってホントかな。不味かったら承知しないからね。
席について店を見まわすと、定食屋のように狭いながらもながらもこざっぱりしている。こういう場にありがちなムード音楽もかかっていない。店主は白衣の料理人姿ではなく真っ白なエプロン姿だった。ほんとに料理してるんだろうか。
切り盛りしているのは老夫婦のようだった。おじいちゃんのほうは頑固で偏屈そうに唇をゆがめていたし、おばあちゃんのほうは客に対してアイソの一つも言わない。
わたしは興奮してきた。ハヤシライス屋なのだ。何度も言うがビーフシチューのご飯添えなのだ。ゲテモノなのだ。それを食べようというわたしたちは、かなりの物好きに違いない。わたしは物好きという言葉が大好きである。このゲテモノを、頑固そうな顔で出す老人の姿は、はじめてジビエ料理を出すシェフに通じるものが感じられる。
「いらっしゃい」
老人は、しわがれた声でぶっきらぼうに言った。
「ハヤシライスお願い」
義母が言うと、おじいちゃんは不機嫌に、
「うちはそれしかやっとらん!」
言い捨てて厨房へ……。こうなってくると否が応でも興奮が増してくる。店には独自の空気が必要だというが、この老人はまったく空気を読んでいない。つまり、それだけ味に自信があるのだ。夜の女でエゴの塊だけど。
しばらくするとハヤシライスがやってきた。金色のとろりとしたスクランブルエッグがご飯に半分かかっている。
「これをかけんさい」
老人は、押しつけるように黒こしょうのミルを渡して去って行く。
ハヤシライスに、黒こしょう?!
口がぱっかり開くのを感じた。助けを求めるように老人をみやると、店主は口をへの字にまげている。文句あっか、という目である。
ハイ、文句はありません。ごめんなさい。
黒こしょうのミルをガリガリ。
これで、よろしいでしょうか? 目を上げると、店主はまだへの字に曲げている。
まだ足りないらしい。
卵とルーの上がこしょうだらけになったところで、店主がおもむろにうなずく。
なるほど、ここで食べろってことなのね。
ひとくち、おずおずと口に運んだ。
……か、からい!!!!!
甘いルーとこしょうの味が相まって、ピリリと引き締まっている。
黒こしょうと卵も相性がバッチリで、あっという間に平らげてしまった。
ああ、今思い出してもヨダレが出る。
今はあの店もなくなってしまった。それとともに、個性豊かな店の主も少なくなってしまったように思うのである。