2017/03/30 ラジオ深夜便 『昭和史を味わう:わたしの生きた昭和の時代』
リスナーからの便り 要約
大正15年7月に生まれたリスナーのひとりイトウノボル(90歳)は、両親は小作農。父親は秋には実った米を地主に納めて両親共々出稼ぎに。子供の彼は、食事は大根と芋と、少量の米であった。彼が16になり、伯父の所へ年季奉公へ行くことになった。印刷物を運ぶ重労働。そうこうしているうちに、海軍に徴用された(毎日塹壕ほり)。
終戦後、田舎に帰ることになった。平和とは何か、人間らしく生きるとはなにかと考えつつ、生きていきたい。
ヒガシカワフトコ(89歳)。昭和2年生まれ。中2になり、3年の時は授業がなくなり、学徒動員に。毎日有能な先輩が出撃されていくのを目撃。戦時中特に印象的だったのは、ペンを剣にかえ、出陣の抱負を述べたこと。
昭和20年4月の空襲で我が家も焼失。焼夷弾の落下音は、二度と聞きたくない。多くの犠牲の上になりたつ今の日本。憲法9条を守り通さねば。
昭和の漢字一文字は、『食』 84歳のリスナー。
戦時下、米・肉などはまったく流れず、一般庶民は「贅沢は敵だ」という軍の宣伝に踊らされた。いまは食にあふれている。かつては かぼちゃと芋を一生分たべたものだった。
シベリア抑留のつらい思い出 90歳のリスナー。
多くの戦友が極寒と飢えに悩まされ、永遠の眠りについている。60万ものひとびとが抑留されたのである。厳寒の地、労働で最初の年にかなり亡くなっていたのである。忘れてはならない。
満州からのひきあげ 81歳のリスナー
父が軍人だったので、満州で生まれて幸せに暮らしていたが、ソ連が侵攻してきたため、3日分の食料と位牌などをもって南へと。北朝鮮で歩いて38度線を突破しようとしたとき、ソ連兵に銃を突きつけられたものの、長崎へ。大切な弟と妹を亡くしてしまったのだ。もう二度と戦争のない平和な日々を祈る。
戦前のラジオの思い出 94歳のリスナー
昭和11年ベルリンオリンピック 前畑がんばれ! の連呼。大相撲のラジオ放送。真空管製で、箱をとんとん叩くと調子が戻る。昭和16年の歴史的開戦。
ラジオに関する話 84歳のリスナー。
戦争と大本営の発表。千人針。パーマネントはやめましょうなど、国中が洗脳されていて恐ろしい時代。山の中の片田舎までB29が来たことがある。政治家などが私情で物事を判断するのが怖い。
戦中戦後の母親に感謝 75歳のリスナー。
戦争が始まったとたん出産した母親の不安(最初の子供)は、いかばかりか。食糧難のときは、花嫁衣装を農家に持って行って食料と替えてもらった。お母さんありがとうございました。二度と悲しい思いを若者にさせたくないのです。
甲子園球場の空襲 72歳のリスナー。
阪神大空襲のことを思い出す。甲子園球場のすぐ近くに住んでいた自分たちは、空襲で我が家が焼けるとは思っていなかった。ラジオから、『空襲警報発令!』と何度も叫ぶ声。防空壕に避難する一家。そこで辺りの状況が一変していた。だれもかれも茫然としていた。軍事工場になっていたから、球場の近くが空襲されたのである。甲子園の事実を伝えたい。
今日のコメント:
人は好んで戦争の時代に生まれたわけじゃない。
出会ったときの悲しさ。今の子どもたちが知らないことは、
大きな特典を持っていることを自覚して、その悲しみをくみ取る。
自分が生まれてきた時代が幸せなら、次世代に伝えていって欲しい。